着任直後に何度も「お前はスパイか」といわれたことがあると話し、


「スパイに間違えられかねないので勉強しませんでした」


・・・と答えました。


長官は


「そんな失礼な質問をした局長がいたとは信じがたい。


しかし、今度そんな質問をする人がいたら、イエス、スパイです。


ただし、サノー長官直属のスパイです、と答えてくれ」


・・・とおっしゃいました。


忘れられない嬉しい言葉でした。


思い出す人は、長官などのVIPだけではありません。


大使館や経済社会開発庁の掃除のおばさんや用務員の顔も懐かしいです。

赴任準備をしていたとき、冷房装置もない大部屋に入らねばならないという通知がありました。


日本側関係者は「タイ側に誠意が見られない」と怒りました。


しかし私は、結構ですと答えました。


文書が順を追って回覧されるとは考えられません。


個室であれば余計に孤立します。


大部屋で同僚と騒ぐほうがいいですし、電話さえ、周りの人に聞いてもらいたいと思ったほどでした。


誤解は避けねばなりません。


冷房の個室より大部屋での汗が誤解を少なくするはずです。


そうした覚悟は持っていましたが、現実にスパイか、といわれたときのショックは大きかったですね。


帰国直前、サノー長官に、


「タイ語はうまくなったか」


・・・と聞かれたことがありました。

ロバート・ローザ元米財務長官は


「べーカー発言でプラザ合意以降築き上げ、定着した各国の政策協調に対する信認が崩れた」


・・・と言い切りました。


各国が修復を装っても、市場参加者の心の中には疑念が残り、その後の市場の展開にも微妙な影響として出てきます。


特に今後、インフレをどう退治していくかが、協調体制、ひいては世界経済の安定につながるカギとして重みを増してきます。


株価暴落以来、88年春ごろまでの主要国の金融緩和が背景となって、各国のこの年の経済成長は次々と上方修正されるほどになりました。


完全雇用状態で設備もフル稼働に近い米国を筆頭に、需給逼迫からインフレ懸念がじわじわと広がってきました。


88年8月には米国がインフレ防止のために抜き打ち的に公定歩合を0・5%引き上げ、西独も対抗するように同じ幅の引き上げに踏み切りました。


遺恨試合の再現のような両国の動きに、ベレゴボワ仏蔵相は


「国際的な協調を欠いたもので、一時的にせよ通貨の危機を招いた」


・・・と厳しく批判。


さざ波のわき立つ中で、象徴的なのは日本の存在でした。


国内景気は順調な拡大を続け、物価も安定している日本は各国から"最後の砦"として扱われ、日本の利上げ決断は禁忌であるかのような趣さえあります。


べーカー発言の趣旨は西独の金利上昇が米国のインフレ懸念を増幅させ、ドル安につながることへの警告でした。


「ドル安になってもいいのか」というブラフ(脅し)のつもりが、ドル安容認、ルーブルで合意した為替相場のレンジの再調整、ひいては各国の協調体制の崩壊、米国経済への不信と次々に連想が膨らみ、為替相場を通り越えて株式の投げ売りを引き起こしたのでした。


株式急落にあわてたべーカー長官は急きょ西独に飛び、シュトルテンベルク蔵相、ぺール西独連銀総裁と会談し、為替安定のための協調体制を確認しました。


西独は米国の要請を受け入れ、金利上昇抑制に動き始めました。


日銀も連動する形で、金利低下を促す手を打ちます。


グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長やレーガン大統領も相次いで特別声明を出し、信用不安防止に全力を挙げるとともに、市場が平静さを取り戻すように訴えました。


米独のあつれきは、各国の景気の実態によってインフレ警戒度など政策姿勢に微妙な違いが出てくることが象徴的に表れたものです。


・・・政策協調にもおのずと限界があることを市場にさらけ出す形となりました。

今や世界経済を支配するのは情報であり、この「情報本位制」の時代にあっては、市場参加者は表面的な各国の政治・経済的な垣根を乗り越え、自分が良いと考える判断に基づいて行動します。


相場情報や相場心理がコンピューター端末を通して増幅しながら世界中に瞬時に伝わり、相場の安定を目指す世界各国の政策協調姿勢に少しでもずれや綻びが見えると、またたくまに市場はその歪みを逃すことなく突いてきます。


動揺は世界中に広がり、思わぬ事態に当局自体がさらに動揺します。


裏返して言えば、各国とも「自国さえよければ構わない」とのスタンスは許されず、好むと好まざるとにかかわらず運命共同体としての「国際協調」という一つの船に乗らなければなりません。


今回の世界的な株価急落の直接のきっかけは、西独を非難したべーカー米財務長官の発言でした。


87年2月の7力国蔵相会議(G7)のルーブル合意に基づいて、各国はドルの暴落を防ぐためにドル買い協調介入をする一方で、米国は金利を高めにし、日本や西独は低金利を維持することで米国との金利差を広げ、資本が米国に流入しやすい環境を作ることに腐心していました。


・・・ところが、夏以降のドル反発局面で、マルク安となった西独が、輸入インフレを警戒しきつめの金融調節を取り始めたのです。


米国債入札も控え、西独へのいらだちを募らせたべーカー長官の口から飛び出したのは、


「必要となれば、ルーブル合意の枠組みを一段と調整することもできる」


・・・との西独けん制。


ドル安容認とも受け取れる表現でした。


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